養生功とは?

【健身功(※養生功)体系について】
(抜粋)
健身功の体系は先師韓樵(星橋)先生、王群女士(※韓星橋先師の奥様)の御二人が生涯を通じて学んだ事を共同で編集し、形にされ、その教えは得がたくも、行えば有効に身体を養うための健身功法として体系化されたものであります。

                            韓競辰 老師

(抜粋)

養生とは私が生きている事実を観ながら等身大で感じれる目を養うことにある。体を通じて生が養われ行く事実を観ながら認めて行き、身で感じ、自らが生きていることを改めて知って行くことに養生を行う意味がある。

                              光岡英稔 導師

 

光岡先生の説く養生功はコチラ

【光岡英稔導師のツイートから】

 

今回の講習稽古の行脚は京都、東京、新潟をまわり昨日の夕方に岡山へ帰宅。この度は東京などで韓氏意拳の養生にも触れ、これから養生の方にも力を入れて行こうかと考えている。同時に武術や拳法が要となる養生観のことを考えさせられる。

 

もともと“命”を守るための“殺”の一字からなる伝統武術の経歴から如何にて“生”を養う体系が生まれるのか疑問に思ったことはないだろうか?

 

たしかに『活殺自在』とか『生死をかけてきた武術だからこそ生死に卓越している』や、さらなる俗説では『身体を用いて生死をかけて来た武術だからこそ殺めることも生かすこともできる』などがある。

 

すべて確かにそうかも知れない説ばかりだが、はたして昔の武士や武芸者と呼ばれる者達の皆が皆その様に人を活かすための術に卓越していたのだろうか?相手を殺めないだけの技量と術を身に付け卓越していた武芸者は確かに居たようだが、彼等が人を活かす術にも卓越していたとは余り耳にしない。

 

また、それらの『活殺自在』や『殺法と活法は表裏一体なり』の説を解く者達の中に幾人が其の生死をかけた戦や争いの経験があるものだろうか。私なども武を志す者として、どの程度できるかとは別に最低限“自らの経験から感じたことを語るべし”と信じている。

 

しかし、仮に実践の経験があったとしても其の当人の死生観が “自他の生と死は自らに在り” と言うだけの自他間における感覚経験の伴った技や術となっており、さらには体現されていることが感覚経験に従い伝えて行けているか否かが問われる。この辺りの事柄から私の養生観は始まる。

 

武術における死生観に“逃げ”はなく、せめぎ合いで“引く”ことはあっても其れは向こうが間合いを見誤ると“出て行ける”状態でもある。

 

そして何よりも我が身が攻めに居る時も『攻めた分だけ体は引いておけるか否か』が問われる。攻めに出すぎて同時に“引いておく”ことを忘れてしまうと出っ張った所からやられてしまう。

 

しかし、『引いておく』ことは「出ないようにしておく」こととは異なり「出ないようにしておく」と逆に攻めに出すぎた時以上にやられやすくなってしまう。結果から言うと何方も“やられてしまう”訳だが、やられ方としては後者の方が余計なファクターが多い。

 

また、先ほども言ったが、仮に引くなら『引いてる分だけ出れる状態』が其処に生じていないと“逃げの死に体、居着きの死に体”になってしまう。

 

この様な死生観を基に武術からなる養生が如何に生じたかをよくよく考え、踏まえた上で其の指導を試みて行きたい。この死と生の表裏性を理解した上で“生を養う”ことを考えた場合に死生観よりも更に前に“生命観”が必要となる。

 

身体教育研究所の野口裕之先生は“人の生因の証明がなされてないのに何故その後にくる死因を求められようものか”と言われるが、まことにそうである。また、それは養生で捉えてみるなら“何が生か分からず、それを如何にして養うことなどできようものか”とも言える。

 

人は死因は分からずとも死は分かる。それは、居たものが居なくなることであり、今の身体との別れの時でもあり、生因の一幕が下りて行く時でもある。生を長引かせることや、死や病を避けようとすることが養生であると勘違いしている人も少なからずいる様だが、それを養生とは呼べない。

 

生、老、病、死の四苦八苦は避ける所ではなく、その要因は未だ解き明かされてない生因から始まっている。生にて始まり死にて一幕終える人生を全うする中で苦とは産まれ来ることであり、生きる意志を決定した以上は致し方なくも避けて通れぬところである。

 

最初に出会う生苦を認め、受け入れぬがために様々なことを欲する故に生じる苦が其れ以降ある。老いぬことを欲し、病にならぬことを欲し、死なぬことを欲し、生が思い通りになることを欲し、苦は増幅して行く。

 

八苦の残りの四苦は少し理解しやすくなっている。求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、一切皆苦、自らが求めるが得られぬ苦しみ、憎く怨みたい自他と出会い苦しみ、自らが愛すること•ものと別れ離れ行く苦しみ、生きることは全て苦なり。と最初の生苦を認められぬが故に生じる更なる苦の増幅がある。

 

この苦に対する理解もそうだが、今の時代に養生を考えるなら時代が要求していることを理解する必要がある。努力してもダメ、怠けても更にダメになり、環境に甘んじ怠惰性に任せるとトコトン駄目になるが、与えられた環境に甘んじることしか教わって来なかった。

 

この様な時代の流れや身体観への理解から今の時代の養生は始まる。人類史において生きることの外的な苦は今の時代がピークかも知れない。しかし、本当の生苦は私の中にあり、私の身体にある。思想としてではなく身と体で感じる生苦がある。これは人が生きている以上は変わらないのかも知れない。

 

養生とは私が生きている事実を観ながら等身大で感じれる目を養うことにある。体を通じて生が養われ行く事実を観ながら認めて行き、身で感じ、自らが生きていることを改めて知って行くことに養生を行う意味がある。

 

そこには一瞬一瞬を懸命に生きている事実を体で感じ、生の養いを行為にて問い、自らの体が教えてくれていることを訊き、体の聲に従い生きて行くことで苦をもってして苦を認め、苦るしき身から外れた苦なき體へと向かって行ける古き時代からの生命観と體の教えがある。

 

以上の話から分かって頂けるかと思うが、養生は簡単で楽かと言うと、そうでもない。インスタント養生を欲するなら私が伝える養生は余り御勧めできない。事実、単純な技撃の方が分かりやすく簡単である。しかし、自らの行為にて生が養われて行く姿を垣間観ることに面白さを感じるなら是非お勧めしたい。

日本韓氏意拳学会 養生功 の解説はコチラ 

http://hsyq-j.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html

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