≪今月の稽古雑感≫

 2017年3月3日(金)/4月6日(金)剣体研究会

 

先月は趣味の社会人サッカーがシーズンインした事と、ブラジリアン柔術初めてようやくテクニックのイロハが分かってきた事から引き出されたアイディアが多くて、このアカウントで呟くことじゃないかなと尻込んでいた。しかしどのアイディアも基調はこの界隈での学びであるからちょいちょい話したいです。

 

前回の剣体研究会で剣の上下と歩の進退の噛合い具合をみてもらったとき、グッと力んで前に出られなかった。それとおんなじグッが、サッカーの試合中に発見された。 

 

中学生の時バドミントンが好きでした。手をゴムみたいに伸ばして低いところでシャトルを掬う時や、相手にバレないように手元で面を変える時、ステップとスイングのタイミングをずらしたり…… 行為には独特の「その時」がある。独特の「その時」に魅了されると、それをするのが好きになる。

バドミントンは野球肘で辞めました。 バドミントンをしている時にしか 現れない、かけがえなき夢中のその時は、自らを壊すような夢中さでもあったようです。 爽やかに為す夢中さもあれば、力んで為す夢中さもある。

 

お風呂に入ってたらバドミントンの事を思い出しちゃったんですよ。 言いたい事は、夢中のときにしか体験できない事があり、趣味や余興として行うそれも、生き様をかけて取り組むそれも、楽しみや醍醐味は「その時」に詰まっているという事です。 そしてその時は夢中ゆえに、把握も描写もしにくい。

 

「夢中のその時」は謎深く、暗黙の領域にある。 そんな「その時」にこそ、自らを能く生きるために発展してきた技術がある。 それが武術なのだと、気付かされたのです。 サッカー中の良くないタイプの夢中さに気づいたのは、「その時」を問う稽古をしてきたからだなぁと思いました。

 

サッカーしてて気づいたグッは、ボールを取られて返せ返せ! と追いかけた時のものでした。前に出ようとしすぎて縦のまとまりを欠いたまま全力で走っていたようです。 試合後に振り返って、ああ、剣体研でやった時とおんなじ癖がでてるんだなあと思いました。

 

剣体研究会では、自分がどうして前に出られなくなっているのか、どうすれば出られるのかを伝えてもらっていました。 なので「よし、来週の試合で同じような場面になったら、あん時学んだ事を応用しよう!」と決めていました。 そして、実際に同じような場面のとき、応用して走ってみたのです。

 

試合前の予想としては、応用する事によって前に突っ込みすぎる事がない→全方位に動き直せる→相手の動きに翻弄されない余裕ができる…でした。 結果はまぁ実際、そんな感じだったかもしれません。 でも試合後に、なんか応用するってのはちょっと違うなあ、何が違うんだろうと思い始めた。

 

それは夢中さでした。 イケてない走りでボールを追いかけていた僕は夢中でした。 イケてる走りでボールを追いかけている僕は夢中じゃありませんでした。 比較するなら断然、夢中の方が楽しいんです。 「そうか、身体を操作していたら夢中になれないんだな」と思いました。

 

なんと勿体無い。 自分がどうしてサッカーをしているかというと、サッカーをしている時にしか体験できない夢中さに魅了されてしまったからではないか。 応用することは、サッカーをダシにして、違う事を確認してることになっちゃってるぞと思いました。 応用に溺れて醍醐味を放棄した訳です。

 

応用することは、なんとも言えない醍醐味を、なんとか言える味に変えることのようです。 応用なんかしちゃって夢中の自分を無理に超えようとするより、もっと単純に「夢中のその時」に自分がどんな良くない癖がでていたのか観察できたという事実を信じようと思いました。それはつまり剣体研究会で此処に問うべきことがあるよと提示された。それを一人で稽古するうちに、少しづつ自分の問いになってきた。そのお陰で、サッカーで夢中なときに起こっていることに気がつけた。 稽古と夢中に通路は開けた訳です。その通路を信じるならば、稽古を続ける=夢中のときに勝手に反映されるかも知れません。 んーうまく言えない。 夢中から覚めて「事」を制御するんじゃなくて、夢中のうちに「事」を良く成せるようにならしめる。そういう風に稽古したいなって思ったし、そうできるように教えてもらってるんだなと実感した訳です。 

(以上)

 

4月3日ツイッターより転載

笹井信吾

10月14日-16日光岡英稔導師講習会(福井&金沢)

 

 

濃密な講習会でした。色んな経験をしました。そのなかで、パッと思い浮かんだ感想をひとつ。

 正座で”護身体”を学んだときのことです。

 ふつうに正座して横から肩を押されると、簡単に倒れてしまいます。そこから先生に導かれながら十分に沈んだ正座になると、肩を押されても平気です。このとき、茶道をやっている二人の変化がずば抜けていたんです。

 お二人の様子を端から見たり、肩を押す役になって観察したことと、光岡先生の説明を受けて思ったのですが、お二人が強くなったのはただ正座に慣れていたからではないようです。もちろん物理的な整いの良さもあるでしょうが、それよりも、お茶を通して経験的に養ってきた”自閉”の世界に「正座」を介してすなおに潜ることができたからではないでしょうか。

 勝手な想像で間違っていたら申し訳ないですが、もしかしたらお二人は、武術の経験をお茶の世界に持ち込むことは多くても、茶道の経験を武術のときに活かすことはあまりなかったのではないでしょうか?

 受講者全員、とくにそのお二人にとっては、今後の稽古の仕方に光明が差すような出来事だったと思います。ぼくも、「文化的な素養」と思われていることと「武術的な強さ」に両側通行の橋が渡された瞬間に立ち会えて、感じ入ってしまいました。

笹井信吾

 2016年8月20日(土)養生功・韓氏意拳 鹿間教室 より

 

 

 韓氏意拳講習会のテーマは先月に引きつづき「感応」です。作為の結果ではなく、自然現象として起こる動きに注目していきました。

 じわじわゆっくり感応。「あぶない!」と突発的感応。バオの感じと焦点。握拳のことなども教わりました。

 先月の講習以来、個人練習のなかで感応の検証をくりかえしています。感応した場合と感応していない場合で同じ動きをします。その違いを比べているうちに、癖というか、慢性化して自分のなかで透明になってしまった作為があるものだと知りました。

 そうしてからだの纏まりの素養がすこし育ってきたからでしょうか、鹿間先生の動きを観察する目が以前とは変化してきたのを感じました。前まではもっぱら歩法の美しさとか、閃くような転体のはやさをスゲエと思っていました。しかし今回の講習会では、先生が拳を握るくらいの動きにも、大きく響くような全身の緊密さを備えていると感じられました。あれほど豊かな内的実数の量と質を備えていれば、僅かに動くだけでも、さぞかし味わい深いんでしょう。いいな、いいな、羨ましいな。ん~、稽古のしどころですなぁと思いました。

笹井信吾

 2016年7月16日(土)養生功・韓氏意拳 鹿間教室 より

 

外的な事物への対応を「反応」と「感応」に分けて教えていただきました。

「反応」はフツーの対処で、客体を主体がどうにかすること。迫ってくる相手の手を振り払うみたいな感じ。

 対して「感応」はそういう主客では言い切れません。身に状態が備わっているなかで、外の事物に注意がつづいているとき、自ずと起こる変化のことを指しているからです。感応は対処ではなく呼応です。外への注意がどのように呼応を生みだすのか、三要素から説明いただき、韓氏意拳初級の2時間半みっちりと指導してもらいました。

 

 技撃椿という武術的な形式のなかで感応が起こると、自ずと体が上下・回転・前後して形から形へ移行します。このときの自ずっぷりや本当に爽やかで、動きの指定を行う私がまったく出てこない。闘わずして闘うとでも言いますか、「感応」は、からだの働きを観察することや、外の事象に注意すること即武術となる、とても重要で豊富な内容の詰まった教えだと思いました。

 

笹井信吾

韓競辰導師 来日講習会を体験して

 6月17日-19日光岡英稔導師講習会(福井&金沢)を前に考える

 

状態と体認について

 

「状態に入ることは、”学ばずして持ち合わせた能力”を発揮することだ」

 講習会で鹿間先生がいっていました。ふむふむ、そうなのかと感じるところがありました。

 ところで、韓氏意拳では、状態の働きを感得することを体認と呼びますが、ちょっとひねくれた考えを弄すると、学ばなくてもよい能力なら、いとも簡単に体認できそうな気がします。でも実際は困難です。体認するには、ありきたりの理解や解釈などで取りつく島がないために、逆にといえば変だけど、やっぱり困難なのです。

 今回の稽古雑感では個人的な遊戯のひとつとして、紙とペンを使って「状態」と「体認」に迫ってみたいと思います。

 

 

学びの遂行

 

 まずとっかかりとして、”学ばずして持ち合わせた能力”の「学ぶ」という部分について見てみる。

 「学ぶ」と聞くと、積極的になにかを把握しようとする態度が思い浮かぶかもしれない。でも実際には、学びの実践は生活のいたるところで、気づかぬうちにも行われている。例えば昼食にうどんを食べる。このなかにも沢山の学びが含まれる。椅子、テーブル、丼ぶり、箸、レンゲ、出汁、うどん、これら文化的な産物を使ったり味わったりすることは、先人の「学び」が積み立てたことを遂行することだからです。フーフー息を吹いて麺を冷ます、ずるずるずるっとすする、正午にランチ♪ だって学びの遂行だ。端的に言って、フツーに生活を営むことは学びを遂行することそのものなのです。

 それでは次に、この「学ぶ」という能力の根源について見てみようと思う。起源や根源を問うことは、なにかしら重要なヒントを与えてくれるものだからです。

 

 

流動的な知性

 

 学びの根源。それはズバッと言って脳みそです。ぼくら現生人類のすごく発達した大脳です。この発達した大脳はさかのぼること約4万年前に登場して以来、現在まで根本的な変化はないといいます。(『対称性人類学』中沢新一)

 たとえばネアンデルタール人の脳では、言葉をあやつる能力と博物的知識をあつかう能力は完全にわかれていたらしい。キノコを指して「キノコだ」と言う働きと、それが食べられると判別する働きがまったく別物で、その間を行き交うようなことはなかったと想像されている。どういうことかと言うと、「キノコの形は男性器に似ているなあ」とか「その滋養は大地の精気である!」などと、ぼくらのように比喩的な表現活動を生み出すことはないということだ。現生人類の脳でも、言葉をあやつる領野と博物的知識をあつかう領野は場所としてわかれている。ただ、その間に通路をひらき縦横無尽に働く流動的な知性が備わっている。

 この流動的な知性が、ぼくらの「学ぶ」という能力の質を決定づけている。ひとつ、流動的であるがゆえに留まることを知らない。ひとつ、パターンに収まりきらない逸脱性を宿している。よって、現生人類はとめどなく遂行的に文化を形づくっていく。

 ここで留意しておきたいことは、「学ぶ」という能力もまた”学ばずして持ち合わせた能力”だということ、そしてそれは、現生人類という種であることを起源としていることです。

 

 

状態の起源について

 

 次は状態の起源を問うてみましょう。その前に一応分けておきたいことがある。「状態」という呼び名が指し示す「状態そのもの」の起源と、「状態」と名付けて伝導可能性を高めてくれた「状態の系譜」なるものの起源です。後者は王向斎先師でよいのでしょうか。この分割はあとで役立つ予定です。ここでは「状態そのもの」の起源をみてみます。

 まずは状態とは何かについて。

 たとえば歩いていて、曲がり角をまがったとします。すると野良犬がいる。目の合った途端、野良犬が猛りだす。自ずとこっちの身にも用意が満ちる。状態って、こういうことかなと思います。

 これから何が起こるかわかりません。危ないことが起きるかもしれない。きっとそのとき、からだは単一の私がコントロールするものと描写できる感じではありません。むしろ無数の細胞的なレベルでの用意が高まることで私というまとまりを構成している感じがするはずです。

 つまり状態とは、生が私を介さず生(キ)のまま発揮されていることです。自然物として生存していることと不可分なことです。

 だから状態の起源を問おうとすると、もれなく生そのものの起源を問わなくてはなりません。そうすると論理的に言って、現生人類という種より古く、単細胞生物より古く、地球誕生より古く、宇宙のはじまりの時ということになります。個人的にはオギャーと生まれたときが生の経験の起源になる。

 でも、これでは起源を問うことにあまり意味がありません。

 さきに、「学ぶ」という能力は現生人類という種であることを起源としていることを見ました。そこに問うべき価値があるのは、4万年来、大脳に根本的な変化がないからです。いまの私の頭の中は、はじまりのときと同じ構造を備えています。「起源だ」と言うだけではない体験としての遡りができるのです。なにか例え話を聞いているときとか、♪イヌの、おまわりさん♪と歌いながらイメージを膨らますとか、知性の流動的な働きに立会うことは、根源を巻き込んで現生人類であることをリバイブすることなのです。

 しかし、「宇宙のはじまり」や「生まれたとき」には構造がない。無いところから生じている。”生因不明”なので、体験としての遡りができない。後天的な経験や発見をどれほど重ね、またそこからの類推を重ねに重ねても、生そのものとは絶対的な断絶がある。

 起源なき体験。構造なき体験。明滅するように体験するしかない体験。それが状態なのです。

 

 

状態と流動的知性の相性?

 

 状態も、流動的知性も、どちらも”学ばずして持ち合わせた能力”でした。だから、瞬間・瞬間・今・今・今みたいな濃い状態にずーっととりさらわれ続けることはありません。「こういうことだったのか」と納得して落ち着いたりします。だけど、「こうやるとこうだから、ああしたら」みたいに経験と類推に頼るばかりでは生の豊かさを垣間みれない。こうして見てみると、状態と流動的知性は相性が悪く思えないだろうか。まるで双極的な働きをもつようにみえるのだ。流動的知性が形をもって働くとき、そこに濃い状態はありえない。濃い状態に入っているとき、流動的知性ははっきりと形をとらない。

 ではいったい、どんな生存戦略で現生人類は流動的知性を備えるに至ったのだろうか。

 もしかして、状態という野性的な能力を不要にして生きられるほど、高度な文化的生活を送るため?

 いや、生の全体性を捨てる選択を、生物がとるはずない。でも現代社会をみまわしてみると、そうとしか考えられなくなるよ。

 実はこうした疑問に答えるためのヒントとなる人類学的な仮説がある。その名を「定住革命説」という。(『暇と退屈の倫理学』、國分功一郎)

 人類は定住生活をはじめる以前、遊動生活を行っていた。同じ場所で生活していると、ゴミや排泄で場が荒れる。食べ物も減る。すると次の場所に移る。ほんの数百メートルで良い。そうしてあたりを周っているうち、場は豊かさを取り戻す。

 定住生活を当たり前に感じているぼくらからすると、遊動生活を定住の前段階的なものに思うかもしれない。遊動生活者たちは定住したくてもできなかったんだ。技術不足、経験不足で、と。しかし、住むことは人にとって本来的に指向された生活様式というわけではない。むしろ人類は仕方なく遊動生活をやめて、住まなければいけない事態におちいったのだという説だ。

 

 

遊動生活から定住生活へ

 

 人類の二足歩行は少なくとも400万年前からはじまっていたとみられている。定住生活がはじまったのは今から約一万年前。人類は399万年以上に及ぶ遊動生活をしていたことになる。

 約一万年前、ヨーロッパ、西アジア、日本などの中緯度帯で足並を揃えたかのように定住集落が出現した。その背景には氷河期から後氷期への気候変動がある。氷河期の中緯度帯はとても寒かったので、草原や疎林が広がっていた。狩りの技術に富んだ人類は、視野のひらけたその土地で、マンモスなどの大きな動物を狩って生活していた。ところが後氷期に入ると温暖化がすすみ、中緯度帯は森林化する。大型動物は森には住まない。狩りの対象はイノシシなど小型化する。狩猟生活の大打撃を補うには、植物か魚類に頼るしかない。しかし中緯度帯は熱帯と異なり、採取できる植物の量が季節に定められている。魚をとるにしても、冬場は水域での活動が厳しい。したがって貯蔵の技術が生み出される。貯蔵は移動を妨げる。人は定住を余儀なくされる。

 

 

食料生産、情報処理能力

 

 ひょっとすると、この説明だけではあまりに定住生活に慣れ親しんだぼくらは納得できないかもしれない。どうしても遊動生活の方が豊かだとか、いいなと思えない。不安定で不確定でなんだか危なっかしい。それに食料生産を行わない生活は厳しそうだ。

 これについては、まず食料生産からみてみよう。小学校でならった歴史的事実を思い出すだけではっきりする。縄文時代は定住していたけれど食料生産をしていない。農耕は弥生時代になってからだ。また、アイヌは定住生活を行っているが、農耕をしていない。漁労活動によって生活を営んでいる。つまり、住み始めたことによって生じた結果のひとつが食料生産なのであって、人類が持つ本来的な指向性のもと生み出された技術などではないということだ。むしろ、食料生産しない生活にこそ豊かさがあると認められないのは、定住生活中心主義ともいえる事態に陥っているかもしれない。

 遊動生活の豊かさとは、物を物として享受する豊かさだ。リンゴはリンゴである。対して定住後の豊かさとは、石高のように物を価値に置き換えた豊かさでもある。現在ぼくらは溢れるような豊かさのなかで枯渇している。こういうタイプの不満足に陥ることのない遊動生活者は、必然的に豊かである。

 次に、遊動生活の不安定な感じについて。住まないのはどうしても安心できない気がする。やっぱり、人は住みたくなって住み始めたんじゃないのかと思ってしまう。

 それに答えるには、現生人類が地球上に登場した経過を整理してみよう。人類が二足歩行をはじめて約396万年経った頃、ぼくら現生人類が活動をはじめた。つまり流動的知性は、遊動生活に合わせた生存戦略のうちに宿されることになったのだ。新しい環境に度々すすんでいくのは、体力的にも知的にも負荷がかかる。でもその負荷のなかにこそ、自らの持てる力を発揮している充実感があるはずだ。

 人は新しい環境にすすみでるとき、自ずと外に注意が向き、身に用意が満ちる。その高まりのなかで、流動的知性は活発に働いている。何を思うでも、認めるでもない。形をもたない働きの最中こそ、流動的知性はもっとも高速で働いている。「あっ、ヘビだ!」知性が形をとる。応じてからだも姿を成す。ヘビが行く。知性も形を解く。心身共にあるような充実感だ。

 答えはまだある。さきに流動的知性は比喩的な表現を生み出すと言った。この比喩的な働きは、高度な情報処理能力と言い換えることが可能である。

「おっ、みたことのないキノコがあるぞ。ずいぶん沢山生えてるな。食べられるかな? どうだろう。毒を持つあのキノコと傘の形が似ている。よく乾いた明るい平地に生えているのも同じだ。でも近くにシラカバの木はないな。んっ、こいつはタヌキが齧った跡じゃないか。よーし、オレも少しずつ齧ってみるか」

 たとえばこんな風に、人類として分化した自らだけではなく、他の生物、植物、地形などへと分化したものの生の特質を捉える。これが比喩的に働く高度な情報処理能力だ。

 種や個として制限された生を生きながら、他の生のあり方を捉える。この生存戦略は別に定住生活を指向しないはずだ。遊動生活のなかでこそ磨かれてきたことであり、そこでこそ十分に発揮されることだからだ。

 

 

定住化、はじまる

 

 とはいえ、定住化ははじまった。するとどうなるだろう。まず確実に探索の機会は減る。高度な探索能力や情報処理能力は全面的に発揮される機会をくじかれる。身に自ずと起こる用意や注意は欠くことが多くなり、状態は失われがちになる。

 しかしもう一方の流動的知性は失われない。その活動はとどまることをしらないのだ。比喩能力と情報処理能力を活かして、何かと何かを結びつけたがる。その能力は自然、もっぱら身近なのものに注がれる。それはある種の思考となり、思考は形となる。

 例えばよく知られているように、煮炊きのための道具である土器がわざわざ飾られるようになったのは縄文時代、日本列島でちょうど定住生活がはじまってからのことだ。

 人為的意味合いを含んで形をもつに至ったものは、さらなる比喩/情報処理の優れたツールとなる。思考や試行の対象として扱いやすいのだ。形はあらたな形を産む。そうして文化のあり方が人を規定し、人がまた文化を規定する。定住化以降、人は何が内的なことで、何が外的なものかわからぬほど複雑に絡み合った世界を生きることこなる。現代社会はその果てにある。

 定住以後一万年、人類史から言えばきわめて短い間に、農耕が始まり、国家が出現し、産業革命が起こり、情報革命が起こり、、、数え上げられぬほどの大事件がおきた。定住革命は、たしかに、きっと起こったのである。

 

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 今回の稽古雑感では、どうして体認がむずかしいのか、どうすれば体認を深めることができるのかに迫りたいと思っていましたが、自分で定めたタイムリミットにより断念。今後につづきます。

 もしかすると気になる方もいるかもしれないので、見通している結論だけ掲げておくと、体認の難しさはひとりで稽古するときに、どうしても定住者の立場で挑むことになってしまうから。そこで助けになるのは型。とはいえ、体認を深めるには講習で先生に移してもらうのが一番。ていうか原理的にそれしかねー、となる予定です。

 2016年4月2日(土)養生功・韓氏意拳 鹿間教室 より

 

いつでもパッと動き出せるくらいの高い状態に入る。その状態を発散して失くすことなく動く。韓氏意拳の稽古でいつも要求されることです。その「状態」へと丁寧に導いてもらったのが、今月の講習会のハイライトだったでしょうか。

フツーに立ったところから、走り出せるほどに「ヨーイ」と状態を高めていくのですが、ぼくの場合「ヨーイを形でつくりすぎないように」と言われました。ん? どういうこと? と内心おもいながら、膝を曲げている姿をそれ以上変えないようにして「ヨーイ」を高めてみる。

すると、足の後ろ側がむくむくとスジ張るようにうごめき始めました。むくむくが次第に膝を曲げている形に近づいていき、ついに合致したかと思うと、からだ全体にまとまりが生まれていました。

 

形をつくって動きやすさを求めるのと、動こうとする要求が形をつくるのとでは、内実の豊かさに大きな違いがありました。この日は参加者それぞれに発見があったようで、会場が濃密な熱気で満ちていました。

笹井信吾

 2016年2月6日(土)養生功・韓氏意拳 鹿間教室 より

 

ぼくには92歳のおじいちゃんがいます。会いに行くとベッドに横たわりながらゆっくりと手を伸ばして迎えてくれます。手は震えています。

2月の講習会では震えについての話がでました。

「なにが起きるかわからない」状況では感知力が鋭くなります。そのときからだの内に目を向けると、活発に断続する微細な働きが観えてきます。その働きが震えとして現れたりもする。武者震いはビビってブルブルすることではない、とのことでした。

 そんな状況のなかで動こうとすると、たんに手を挙げる最中にもカチカチカチッと何度も意識不明になってしまいます。意識不明だなんて大げさな表現はぼくが未熟だからで、鹿間先生はそれを「弾力がある」と言い表していました。たとえば伸ばしている手をパッと外からはじかれても、たちまち戻るような安定した弾力感がみいだせるというのです。内に籠もらぬさわやかな描写に「うーむ」と感じ入りました。

 おじいちゃんの手が震えています。それを衰弱の表れとみるか、それともぼくに会ってたちまち活発になったことの表れとみるか。そんなことも考えさせてくれました。

 

笹井信吾

笹井氏による「韓氏意拳 論作文」のご紹介

 

東京で活動されている駒井雅和教練が企画した「韓氏意拳論作文募集」に当会の笹井さんがナイスな文章を発表されました。他の論作文と合わせてぜひご一読ください(^.^)

~~~~~~~~~~~論作文発表の主旨~~~<東京分館 駒井雅和>~~~~~~~~~~~

教える側でなく、習っている方からの「韓氏意拳論」ですから

すでに学習を始めている方には「そうそう!」と共感を呼ぶでしょうし

また何らかのきっかけでこれから韓氏意拳を学ぼうとする方にも参考になること多と思います。

月曜稽古会

@seisenchu

 

笹井さんが企画する自主稽古会です。情報はツイッターからどうぞ。